研究最前線

「憲法学」、あるいは、「憲法」を維持し解明し続けるということ

千國 亮介(プロフィール

憲法学とは何か

憲法研究者やその一人である私が、どのような研究をしているのかを語るためには、まず、憲法学がどのような学問であり、ひいては、憲法や憲法学が何のために存在しているのか、お話しする必要があります。

私たちは、少し立ち止まってみれば、普段意識していなくとも、「法」に囲まれ、「法」に寄り添いながら、あるいは、「法」とともに生活していることに、気がつくと思います。横断歩道で、赤信号が点灯しているのを見て、立ち止まったとき、それは、「法」とともに生きていることを意味します。それでは、なぜ私たちの生活に「法」が(生活と切り離し難く)存在しているのでしょうか。

おそらく、動物たちにも、例えば「“縄張り”意識」があることが確認されているように、「法」といえるものは存在していると思いますが、「人間」においては、それより顕著な形で存在していることに思いを馳せれば、自ずと分かってくるでしょう。

そう、私たち「人間」は、“文明化”したから、「法」を有しているのです。

「人間」は、例えば、“ナイフ”という道具を作りました。それにより、料理をして物を美味しく食したり、縄を切って別の便利な道具を作ることができるなど、生活が豊かになります。これは、「人間」が<幸福>になるための、当然の発展です。しかし、“ナイフ”によって、「人」が「人」を容易に殺せてしまうようになりました。私たち「人間」は、私たちの<幸福>のために、「“ナイフ”で人を刺してはいけない」という「法」を生み出し(定立し)、遵守するようになります。(“文明化”とは、“技術的発展”と“法の自覚的定立と遵守”の両方を分かち難く内包した言葉です。)

さらに考えてみましょう。ある人が、「手術」をすることによって、より長く生きることができる技術を開発したとします。しかし、先の「“ナイフ”で人を刺してはいけない」という具体的規定(法律)に反するから、「手術」することができない、ということになれば、それはむしろ、私たちの<幸福>に反します。このとき、私たちは、「“ナイフ”で人を刺してはいけない」という規定を、殺意や傷つける意図のない場合は別と「解釈」(裁判所)するか、「改正」(立法府)することで、対処します。「法」は、私たちの<幸福>のために存在しているからです。

このように考えてみれば分かるように、私たち「人間」は、自分たちが<幸福>に生きるために、自分たちの求め・意思により、「法」を創出し続け、遵守しています。だとすれば、“ナイフ”の使い方に適切な制限・規制の仕方があるように、あらゆるものの規制の仕方には、適正な内容があるはずで、常に、規制し過ぎていたり、規制が足りなかったり、ということがないかどうか、検討し続けなければならない、ということになります。

現在、私たち(例えば日本人)は、日本国という1億人を超える大きな共同体で暮らしており、「法」の具体的な創出は、“世論”を背景としながらも、「国会」や「裁判所」といった、大きく、また、権力性を有する国家機関により、行なわれていますが、基本構造は変わらず、また、変わってはならない、ということも、理解されるでしょう。「国会」や「裁判所」は、私たちの<幸福>のために、「法」を定立し、解釈しているのです。

もっとも、現在のように、共同体が大きくなり、技術的にも高度で複雑化した社会においては、難しい問題が出てきます。それは、何を規制すべきで、何を規制してはならないのか、分かりにくくなり、ひいては、冒頭で示唆したように、私たちは、「法」の存在を意識することさえなくなり、「法」が何のために存在するのかさえ、分からなくなっている、ということです。

このような状況においては、「法」の創出や運用を担う権力性を有する国家機関(権力所持者)が、時に、私たちの<幸福>のためではなく、“権力所持者の<利益>のみ”のために「法」の創出・運用(「法」を利用)する、ということが生じたり、あるいは、(権力所持者に「法」を利用する意図がないままに)私たちが<幸福>にならない「法」が創出されていた場合でも、私たちが無自覚にそのような「法」を遵守している、ということが起こり得ます。

実は、「憲法」は、このような事態を、未然に防いだり、是正するために、存在しています。「憲法」は、私たちの<幸福>のために、権力性を有する国家機関を置き、その権限内容を規律し、そのことを明確にすることで、権限の濫用を防ぎ、適切な行使を促すとともに、私たちに、自分たちが遵守している「法」が適切なものなのかどうか、適切な「法」が創出されているのかどうか、常に検討し続けることを求めています。

しかし、「憲法」は、先に述べた通り、現状において、常に権力者(や国民自身)によって掘り崩される危険にさらされているとともに、分かりやすいものではありえなくなっています。そのため、「憲法」を維持し、解明し続けるために、「憲法学」が必要なのです。裏を返せば、「憲法学」とは、「憲法」を維持し解明する学問である、ということが、分かってもらえると思います。

憲法研究者はどのような研究を行なっているのか

それでは、漸くですが、「憲法学」を担う憲法研究者は、具体的にどのような研究を行なっているのか、というお話をします。

ひとつは、先に述べた通り、「憲法」がいわば自分たちが「法」を適切に創出し続けるという基本構造を壊さないようにするためのものであることから、「市民」とともに「憲法」が存在し維持されるよう、市民運動へのコミットや啓蒙活動を大切にしています。

もう一つは、いうまでもなく、<「憲法」の解明>です。(日本国でいえば、)「日本国憲法」という憲法典は、字面だけでは、あまり意味を感じることができないかもしれませんし、あまり多くのことが書かれているわけではありません。そこから、実質的な多くのことを引き出すことが、<「憲法」の解明>であり、「憲法学」の専門書などで示されている諸<理論>は、<解明>の成果です。そして、これが、適切な「法」の創出のための「ガイドライン」として、憲法研究者が示そうとしているものなのです。

しかし、ここで重要なことは、これまでの“<「憲法」の解明>=<理論>=「ガイドライン」”は、必ずしも完璧なものではなく、いわば未完成なものだということです。(先に、「解明し続ける」と表現したのは、そのような趣旨です。)そして、未完成であること(不備のあること)を、市民運動が生じることを通じて認識されることも多い、ということです。<「憲法」の解明>としての<理論>構築は、市民運動(場合によって)という<実践>と切り離すことはできず、<実践>としての市民運動も、<理論>抜きには成り立たない、という関係にあります。(ここで注意すべきは、<実践>は、必ずしも市民運動の形態をとる必要はなく、<理論>研究を行なうことも<実践>ということができ、その意味では、両者は一致します(<理論>=<実践>)。(アリストテレス(Aristoteles)やカント(I. Kant)の「実践」の用語法を参照して下さい。))

憲法研究者としての私の研究

それでは、憲法研究者の一人である私が、どのような研究をしているのか、お話ししましょう。

私は、憲法研究者として、やはり所謂「ガイドライン」を示すべく、人権論を中心に<理論>研究を行なってきましたが、そのアプローチの仕方で(方法的に)大きく分けるならば、三つになると思います。

ひとつは、市民運動による「権利」要求から、人権論の枠組みを再考する研究です。1990年代頃から、犯罪被害者に対する配慮の不十分さが多く指摘されるようになり、犯罪被害者の権利要求が高まりました。現在では、「犯罪被害者等基本法」(2005年)などが制定され、この運動の中心的な団体が役割を終えたとしてすでに解散している(2018年)など、かなり犯罪被害者の権利は実現されました。しかし、理論的には、それまでの憲法学では、この権利要求を基礎づけることができていませんでした。基礎づけることができないということは、それまでの人権論が理論的に不十分であったということを意味します。なぜなら、先に示した“ナイフ”の例からも分かる通り、私たちの<幸福>に反する状況であったのに、当時の「法」の不適切さを検知することができない(さらにいえば、不適切さにお墨付きを与える)「ガイドライン」だった、ということになるからです。私は、犯罪被害者の「権利」を基礎づけることができる人権論へ組み換える研究(理論的作業)を行ないました。これは、個別の問題から、「ガイドライン」をより良くする研究です。

もう一つは、人権論の枠組みそのものの体系性の完成度から、人権論の枠組みを再考する研究です。これまで、被害者の権利(これは比較的新しいのですが)に限らず、公害や社会保障の問題などで、(環境権や生存権などに関係して、)多くの「権利」要求がなされてきており、今でも人権論として解決しているとはいえない、多くの問題群があります。言い換えれば、そのような<実践>的蓄積を踏まえ、人権論の体系性をみると、統一的に説明することのできない部分が多く見出される、ということです。そのようないわば矛盾が内包されているということは、構成的バランスを欠き、未だ何らかの「権利」の実現に不備が生じる状況にあるといえます(カント)。これらの矛盾を解消するように構成し直し、体系性をより高めることができれば、具体的に「権利」要求が行なわれてこなかった(いわば気がつかず実現されてこなかった)ものでも、前もってそれを実現させることができるような「法」の創出が可能になります。これは、「ガイドライン」そのものを研究することで、「ガイドライン」を改善する(包括理論としての構造論的)研究です。

三つ目は、人権論(解釈学)を支える、“「自由」の<本質>”を見定め、把握する研究です。すでにお話ししたように、例えば、市民が「権利」要求する場合、「法」が私たちの<幸福>に反する状況になっていることを改善したい、ということでした。先に示した“ナイフ”の例でいえば、「“ナイフ”で人を刺してはいけない」という法律が、手術する「自由」と手術を受けて生き長らえる「自由」を奪い、<幸福>に反する状況を生むことになりえたわけです。私たちが“文明化”し、「法」を自覚的に創出することによって<幸福>を維持しようとしたとき、私たちの<幸福>は、“「自由」であること”が、その条件あるいはその中身として把握されるようになります。このとき、“「(適正な)法」が存在する”ということは“「(適正な)自由」を享受する”ことと同義であること[「法」=「自由」](ロック(J. Locke))が理解されるでしょう。そうであるがゆえに、私たちは、全ての人が「自由」であることを望むのであり、それゆえ、「自由」は、「平等」と相補的あるいはそれを内包する観念であると同時に、それを求めること(「権利」要求)が、「法」を創出し続けることそのものになるのです。そして、「平等」を内包していることにより、先の体系的(構成的)検討から、予め「自由」を導き出すことができることも理解されるでしょう。

そうだとすれば、具体的「自由」を導き出すあるいはトレースする作業や、そのための「ガイドライン」を設定する作業は、その「自由」の<本質>を見定め続ける仕事と切り離せない、ということも分かると思います。先に、「ガイドライン」が未完成であると述べましたが、永遠に未完成であるのは“技術的発展”が続いていることも大きく影響しています。“ナイフ”の例で、「手術」という技術が開発されるように、例えば、メディア環境が変化すれば、それまでの「表現の自由」に対する規制の仕方は再検討を迫られることになります。そのときに、必要になるのが、現在の規制の仕方に縛られるのではなく、“「自由」の<本質>は何であったのか”にまで遡って、新たな規制のあり方を考える、ということです(「脱構築」(デリダ(J. Derrida))。そのためには、抽象的な“「法」=「自由」の<本質>”を、あらゆる動きや時間の流れが止まったかのように、静かに、深く、見定めなければならないのです。

これは、時代を超えて残った思想家や憲法学者等の古典に流れる<普遍性>を、むしろ時代状況に囚われず(これは現代の時代状況からみて当時の時代状況を取り払いながらということでもありますが)、掬い取り続ける研究であり、このような原理的考察を通して、より時代状況の変化に耐えられる普遍性の高い包括理論として人権論(「ガイドライン」)を鍛え上げることができる、と考えています。

このように、私自身が行なってきた研究は、具体的な<実践>から抽象的<理論>さらに<本質>と、三つに分けることができるのと同時に、連続的かつ一体のもの(三位一体)です。言い換えれば、時代状況により生まれる“最先端”のテーマと時代を超えて見定めるべくいわば“最深端”の研究を同時に行なってきました。

この“最先端”“最深端”とも、まさに研究の「最前線」です。(私はまだ駆け出しではありますが、あくまで一例として、)本稿で紹介させていただいた私の研究を通して、「憲法」研究の「最前線」を感じ取っていただけたら幸いです。

(2018年7月)

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