研究最前線

総合政策とは何か、キャリア支援とは何か~思い出

高嶋 裕一(プロフィール

はじめに・・・なぜこうなったのか

私がいま取り組んでいる仕事についてお話します。私は本当は経済学者で、しかもエンジニアです。少なくとも2000年頃は自分をそう規定していました(いや、過去形は不味いな。今でもそうです)。それがひょんなことから総合政策とは何か、キャリア支援とは何かを自分の人生の中で真剣に考えざるを得なくなったのは、いずれも偶然が作用しています。

政策とは何か

最初のカリキュラムの時からある授業「政策学基礎」、別の先生が担っていましたが、ある事情から途中退任を余儀なくされ、担当者不在となってしまったのです。学部の運営会議に呼び出されたです。重鎮が顔を揃えていました。よく親しくさせていただいた方が言うのです。「しまちゃん、おまえがやれ」。口調はもっと丁寧だったかもしれません。そして私と私より目上の、ラーメンが大好きな先生とコンビを組んでこの科目を担当しました。私は全体のコーディネートをし、先輩の先生に要所を固めてもらう、というやり方で進めました。

私はこの時初めて政策とは何か、ということを真剣に学んだようです。部品はあるのです。政策体系を論じ、政策過程を論ずると自然に、政策形成、政策実施、政策評価、いやゆるPDCAってやつですな、これを教えることができる。けれど、肝心の政策って何、というところを出だしで語らねばならない。ここにきて、政策というのが、科学の対極にある、という歴然たる事実に直面しなければならなくなる。科学というのは、既にあるものを分解して、それがどうやって動くのかを知ることです。例えば、地球科学というものは地球が存在していることを前提としている。何を当たり前のことを、と言われるかもしれないですが、同じことを政策についてやるのは困難です。まず政策はものではない。じゃあ法学なのかというとそういうわけではない。法というのは政策(あるいは目的と言い換えてもいいでしょう)があって、初めて意味を持つものです。

政策と科学の違いはあるけれども、これに気付かないまま授業をやる、あるいは研究すると大変な間違いを犯します。そして政策というものに敵意をむき出しにする、あるいは隔離をするという不穏な雰囲気が時折生じることを私はたびたび目にしてきました。以前は政策科学講座というものがあり、私もそこに所属していたわけですが、私はそれが存在するということ自体にアパルトヘイト的なものを感じて反発しました。政策は我々すべての科学者が考慮に入れなければならない、それについて一家言持つべきものです。

ある、研究室を古本屋のようにしていた先生(こう言うと当てはまってしまう人が多いが)から学部に哲学が必要だと言われたことがあります。然り。その通り。しかし、哲学をアパルトヘイトにしてしまってはなりません。そんなわけで、私は今哲学をかじっている最中です。私の今の拠り所はサルトルです。(「存在と無」のエッセンスを記号表現できることに気が付きました。冒頭の図がこれです。即自をW、対自をPで表現しています。)

キャリア支援とは何か

キャリア教育に取り組んだのも偶然の産物です。二回目か三回目かのカリキュラム改定の折、当時の学部長に呼び出されて、こう言われました。「高嶋君、今度「産業事情」という授業をやるので手伝ってくれないか」。その先生は、学科は違えど、私の母校の先生で私の恩師ともツーカーの仲だったわけですから、私も無下には断れない。また私も「公益事業論」という名の産業組織論を曲がりなりにも教えている立場ですから、ここで引いたら男がスタる、というわけで、私は手伝うだけという口約束のもと、授業に参加したです。案の定、翌年から私がメインになりましたが。

「産業事情」というのは、キャリア支援の領域では「業界研究」と呼ばれるもので、学生たちに様々な業界があることを気付かせる、またそこで自分が活躍するイメージを持ってもらう、ということを任務とするわけです。当初は盛岡商工会議所と組んで、地元企業の社長のみなさんの講演会を組んでいました。それがリーマンショックの少し後のことでしょうか、いきなり就職氷河期、ということで、経済産業省は社会人基礎力を打ち出し、文科省は競うように就業力ということを言い始めました。学部内にワーキングが設置され、私もそこに出ました。で、就業力育成を専門科目として実施するという新たなミッションが与えられました。

私がこれに関わった動機は、ひとえに就職難への備え、ということに尽きるでしょうか。当時、経済学では教育の経済学とか、シグナリング理論とかが流行っていたわけですが、私はこの理論はそもそも教育というものを放棄した考えのように思いました。課題を課して、後は放任するだけなので。教育における責任とは何か、を考えると就業力育成ということは避けて通れないですし、今は人手不足で売り手市場なのだから、という市場環境に頼った無責任体制は戦前だけでたくさんだ、という反発もあります。

こんな風に書くと、あたかも私が産業の研究をそっちのけでキャリア教育にまい進しているかのように誤解されるかもしれないので、付け加えると、私はスラッファの業績を暗号解読のように解読して、それが産業研究において重大なカギを握ることに最近、気が付きました。ほめて欲しいです。

終わりに

私はべらべらしゃべりすぎたようですが、人生というものは契約で決まるのではなく、その時々の決断で決まるのだということは強調しておきたいです。契約に縛られるのも人間ですが、その契約を逆手に取って自分を作り出すのもその同じ人間なのです。契約に頼りたいのは、人間関係と責任から逃避したい、という心理の現れだ、とおそらくサルトルならば言うでしょう。

(2026年5月)

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